文化系ブログ

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『くるみ割り人形』を聞いてチャイコフスキーが描きだすロシアの幻想性について考えた

 

チャイコフスキー:バレエ「くるみ割り人形」全曲

 帰って来る途中でFMをつけたら『くるみ割り人形』の「金平糖の踊り」が流れてきた。この曲は曲として聞くというより、バレエの伴奏として耳にする感じなのだけど、こうやってステレオで聞いていると、なんだか懐かしい気持ちになってきた。

 

モーツァルトに比べて、ベートーベンやチャイコフスキーはある意味ダサい。でもベートーベンはその精神性のどこまで行くんだという凄さみたいなものがあって、やはりベートーベンはベートーベンだなと思うのだけど、チャイコフスキーは敢えて音楽として聴こうという気があまりしないところがある。吉田秀和プーシキンに始まったロシア文学に対して、音楽がチャイコフスキーで始まったことは何かロシアの音楽が残念なものになる原因になっている、というようなことを書いていて、私自身もそう思っていたのでわが意を得たりという感じだった。

 

それはつまり、文学にしろ音楽にしろロシアはヨーロッパに遅れて発達した国なわけで、その点は日本と共通したところがあるのは、いわゆる「後進帝国主義国」という歴史学上の概念からも言えるのだけど、日本がヨーロッパとは違う文化伝統を持ち、ヨーロッパの文物が取り入れられてもやはりどんなものにも日本らしさというものが現れてしまうのと同様、ロシアにもそういうところはある。

 

文学において、プーシキンというのはモーツァルトと同じような天才であって、同じように夭逝している。モーツァルトは病気だがプーシキンは決闘で死ぬというある意味華々しい死に方をしていて、世界的に見ればロシア文学と言えばまずトルストイドストエフスキーなわけだけど、ロシア人自身はプーシキンこそが国民詩人・国民作家とみなしている。スターリンプーシキンを好んでいるということをことあるごとにアピールしてインテリであり心が豊かであるということを国民に示していたりしたけれども、プーシキンはそういう意味で幸福なロシア文学の一つの象徴=アイコンになっている。

 

日本でもそうだけど、ロシアでも常にピョートル大帝以来の西欧的近代化を目指すヨーロッパ主義者と、伝統的なロシアに拘泥するロシア主義のようなものが対立して来ていて、プーシキンはヨーロッパ主義者でありながらロシア主義者の心の襞にも入っていけるようなやわらかで繊細な調べを生みだした。そういう意味でプーシキンはロシアの統合の象徴ともなった。

 

それに比べるとチャイコフスキーの位置づけは曖昧だ。プーシキンは軽やかではあるが軽薄ではない。チャイコフスキーの私のイメージは、その反対だった。

 

しかし、『テレプシコーラ』などのバレエマンガを読んだり、それに触発されてバレエの公演を見に行ったりするようになってから、少なくともバレエ音楽としてのチャイコフスキーはよくできていると思うようになった。舞台ではある意味の「あざとさ」とか「ダサさ」とかが必要になって来る。舞台は必ずしも教養があるとは限らない王侯や大衆のものだからだ。分かりやすくするために「くどい」表現も必要になる。上品でさらっとしていなくはなくても、ある意味「これでもか」というところが必要になる。

 

今朝『くるみ割り人形』を聞いてなんだか懐かしさを覚えたのは、そういうバレエをよく見に行っていた頃のことを思い出したからで、また『テレプシコーラ』の中で主人公の一人千花(チカ)がけがをする場面を、六花(ユキ)がとにかく何とかその舞台をこなした場面を思い出して、なんだかうるっとくるものがあった。チャイコフスキーで感動する、というのはただその作品のアーティスティックな、技術的な、品の有無という点で感心し感動するということよりも、もっとエモーショナルな、つっかえつっかえ躓きながら歩いて行く人生というものに対する共感と感動、みたいなものがあるのかもしれないし、「金平糖の踊り」に込められたある種の祈り、祈りと呪いのどちらか自分でもわからないような情念、と言ったものに対する感動であるように思った。

 

その時ふと先日行った「クリスタライズ展」で『白鳥の湖』の曲を流しながら結晶させると曲想によって結晶の仕方が変わってくる、という展示があったことを思い出した。

 

白鳥の湖」の曲は、あのバレエの場面に非常にふさわしく、というかあの曲がなければあのバレエは成立しないが、そぎ落とされた白鳥の衣裳が薄暗い青い照明の中で映えている。あの音楽が、その世界を成立させている。

 

あの世界はとても幻想的なのだけど、あの幻想性はもちろんヨーロッパ的な幻想性でもあるけれども、その根にあるのはむしろロシア的な幻想性なのだと思った。ヨーロッパのバレエは基本的にもっと近代的で、もっと明るい。あの作品がボリショイの十八番だというのは理由のないことではない。

 

それはロシアの、ヨーロッパに比べれば「遅れている」からこその、生き残った幻想性なのだと思った。シェークスピアまでさかのぼればイギリスの舞台芸術も十分に幻想性を残しているけれども、骨の髄まで近代精神を叩きこまれた欧米の役者には「テンペスト」などの幻想的な舞台を演じる力、というか素質がない、だから日本やアフリカなどの非西欧世界の役者を使う、と「テンペスト」を舞台化した演出家が行っていたけれども、「白鳥の湖」というドイツを舞台にした幻想的なストーリーを舞台化できたのはロシアのいい意味での後進性、つまり霊的・魔的なものを感じる感性がまだ社会的に生き残っていたということが大きいのではないかと思った。

 

そういうふうに考えてみると、プーシキンはスマートだけれども、チャイコフスキーにはプーシキンには十分にあるとは言えないロシアの土俗性みたいなものが良く現れているととらえることが出来るわけで、まあたとえば現在の「白鳥の湖」の演出はプティバによってフランス的な洗練されたセンスが加えられてはいるけれども、それでもスピリチュアルなものへの志向は研ぎ澄まされている。

 

バレエというもの自体、まるで重力がないかのように踊るあの生体「立体機動装置」のような肉体そのものがある種幻想的だ。

 

チャイコフスキーには、私に見えていない魅力があったということを確認して、少し幸福な気持ちになったのだった。