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芥川賞を受賞した小山田浩子さんの『穴』を読了。何が書いてあるのかわからない、不思議な小説だった。

穴

小山田浩子『穴』を読了。何が書いてあるのかわからない、不思議な小説だった。

 

金曜日の夜にamazonから届いているのを確認し、少しずつ読んで、日曜日の午後の先ほど読了した。100ページ弱の作品なのに、なんだか思ったより読むのに時間がかかってしまった。

 

読みにくいかというと、そんなことはない。むしろ、するする読める。引っ越してからの田舎の自然描写が素敵で、ああこういう周囲の風景はいいなあと思う。

 

ただ、読んでいて、妙に現実感が薄いのがなんだか気がかりと言えば気がかりだ。

 

いかはネタバレと言えばネタバレなのだが、読んでも何が書いてあるのかはあまりよくわからないかもしれない。

 

最初しばらくの間は、出てくる人物がみな向後つぐおさんのマンガ『茗荷谷 なみだ坂診療所』の登場人物の絵で動き回っているイメージがぬぐえず、なんだかよくわからなかった。

 

派遣社員でフルに働いているのに給料は正社員より全然安く、ボーナスは10分の1の寸志。その仕事をやめて、夫の実家の横の借家に家賃なしですまわせてもらっても経済的には全然OKになって、自分のやっていたことは何だったんだろうとむなしくなる。

 

出てくる人物の多くが主人公「あさひ」との続柄で語られる。夫、舅、姑まではいいが、義祖父になるとそれだけでなんだか奇妙な感じだ。

 

主人公は、周りに起こったことを特に感情的な反応もせず、すっと受け入れる。夫の実家の隣に住むというと嫁姑問題で面倒だ、とか思わない。姑は若々しく引っ越しの時もテキパキ指示し、業者からも「奥さん」と呼び掛けられるのは姑の方だ。

 

仕事をやめたあさひは一日中暇を持て余す。義祖父は一日中庭に水を撒いていることが分かったが、ある雨の日、その日も庭に水を撒いていたのに気付いてぞっとする。このあたりからかなり不条理性が出てくるのだが、まだこれは単なる痴呆なのではないかという解釈に読んでいて頼ろうとしていた。

 

ある日姑から電話がかかってきて、振り込みを頼まれたあさひはお金を持って初めて川向こうのコンビニに出かける。その途中で妙な黒い獣を見つけ、ついて行って穴に落ちてしまう。そこから出ようとして出られないでいると、白い服を着た女性に助けられる。助けられて初めて、その人が自分の隣人であったことを知る。

 

ここで、私はこの黒い獣はカモシカに違いないと確信しながら読んでいたのだが、結局最後まで正体は語られなかった。

 

コンビニに行くと、そこらじゅうに子どもがいてATMに行くのに邪魔になる。子どもたちに声をかけてどかせてくれた男性は、子どもたちから先生と呼ばれていた。

この子供たちの妙な生々しさがまた変な感触なのだ。

 

またある日、義祖父が水を撒くのを敬遠しながら家の横に入っていくと、突然「お嫁さん」と呼び掛けられる。それは「先生」と呼ばれていた男性だったのだが、その男性は夫の兄であると名乗る。

 

このあたりになってくるとずいぶん怪しくなってくる。そうかこれは不条理小説だったのかと思う。でもこんなにすらすらと不条理が展開するなんて、こういう手法は新しいのだろうか、なんてどちらかというとそういう手法の方が気になってくる。今更不条理小説なんて新しくもないだろう。

 

しかし読み進めていくうちに、なんだか不条理小説ですらなくなってくる。義祖父が夜中にふらふらと抜け出したのに気付いてついていくと義兄が現れ、一緒に後を追う。義祖父はあさひが落ちたあたりでいなくなり、穴に入っている。あさひは自分も穴に入らなければならないと思い(なぜ?)隣の穴に入るとその下にはあの謎の黒い獣がいて、あたたかい体温を感じた。

 

義祖父を連れて家に帰るが、義祖父は肺炎を起こし、やがてなくなる。亡くなったそのあとに大量の老人がやってきてこもごも悔みを述べる。「お嫁さん、仏壇は一本花でなければならない」と老婆たちが言う。その「お嫁さん」とは姑のことを指していた。息子さんとは舅のことだった。姑は疲れ切っていて動けないでいて、あさひがかわりに老婆たちの言うとおりに動く。

 

どうもこのあたりで、「お嫁さん」の代替わりが起こったように感じられる。

 

しばらくして、あさひはコンビニに勤めることになり、制服をもらって帰り、家で制服を着て鏡をのぞいてみるのだが、自分の顔が姑に似てきたことに気付く、というラストなのだった。

 

読み終えてみると、これは「あさひ」が田舎の奇妙な秩序の中の一員になっていく、という話のようにも読める。この「あさひ」の抵抗のなさはある意味異常だ。しかし、私自身も田舎にいると思うのだけど、あんまりどうなんだそれはと思っていても、まあ今までそういうことだったならそれでいいか、みたいな感じになる部分はたくさんあって、それが奇妙に自分に染みついていく感じが描かれているようにも思った。

 

それにしてもよくわからないのでネットで作者のインタビューなど探してみる。こちらには、こんなことが書いてあった。

 

『次作の構想は、と聞かれるといつも答えに窮する。書いてみないとわからないのだ。書く前に決めていることはほとんどない。何を書こうとしているのか、書き終わってもわからないこともある。』

 

『私が、何なのかわからないまま書いたものを、もちろん推敲(すいこう)や彫琢(ちょうたく)を経てのものではあるがそれでも何だかわからないものを、どこかで読者が読んでいる。』

 

なるほど、作者自身も何を書こうとしているのかわからないし、何なのかわからないまま推敲し彫琢したものが、作品になっているのだ。

 

この感覚はよくわかる。いろいろなものが分からないままに並べられている。一つ一つは何かを語っているような感じがするのだが、全体としては何を言っているのかよくわからない。しかし、日常というものは、またあるいは人生というものは、結構そういうものではないかと思う。人生というものは、あまりに自然すぎて、不条理なのだ。テーマがあるような気がして人は生きているけど、そんなものはその場その場にしかないのだろう。その感覚が、とてもよく描けているように思った。

 

ああ、昨日の時点では、この小説が「生半可な不条理性」を描いたつまらない作品なのではないかという批評を描こうと思っていたのだ。それが読み終えてみるとなんだかよくわからなくなっている。読みながら、読む側はこの作品はこういう作品だ、という評価を無意識に下しながら読んでいる。そして、この作品の狡猾なところは、その評価に迎合するようなことをそこかしこではさみながら進んでいくのだ。なのに全然、そんなところに焦点がなかったりする。

 

最初は「派遣小説」かと思い、次には「自然描写小説」かと思い、謎の獣の正体を考察させ、今まで出てきた話との整合性を頭の中で組み立てさせられ、「不条理小説」かと思い、最後は「嫁という存在」をテーマとした小説家と思うが、話に乗せられたと思っていたところを次々とはしごを外され、最後には何が書いてあったのかよくわからなくなってしまう。

 

これは全くたくらみに満ちた小説で、でも作者は自分が何を書いているのかわからないまま書いているという。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。そうなのだとすれば、これは無意識というものの持つたくらみ性がうまく表現された作品ということになるし、そうでないならば無意識に表現されたものを丹念に拾いながら一つ一つを選目に像が結ばないように、不思議なコラージュをしながら全体的に仕上げたということになる。

 

前回の芥川賞作品、『abさんご』もわけのわからない作品だったが、文章自体が読みにくく、こちらのほうは最後まで読めずに投げ出してしまった。『穴』は読めば読むほどわからなくなるが、文章自体は読みやすく、最後まで読んでしまって余計なんだったんだという感じ。こういう言い方が妥当かどうかは分からないが、「いい意味でわけの分からない作品」だったと思う。

 

私は2000年以降の芥川賞作品は『abさんご』をのぞいてすべて読んでいるのだけど、この中で「わけが分からない」と思ったのは町田康『きれぎれ』と川上未映子『乳と卵』の二作品だった。この二つはやはり『abさんご』と同じくわけが分からず読みにくい作品だったが、何とか最後まで読めた。ここのところの芥川賞作品で、「わけがわからないけど読みやすい」と感じた作品は、これが初めてではないかと思う。

 

何というか、小説としてはそれがある意味理想なのかもしれない。本当のことをいえば、名作と言われる小説だってよく読めば何を言っているのかわけがわからないと思うものはある。こう解釈すべきだ、という読み方がいろいろなところで指定されているからそう読むものかと思って読むわけだけど、虚心坦懐に読んでみたら本当はわけがわからない、ということはよくある。そして、そういう小説に共通しているのは、「わけがわからないけど読みやすい」ということなのだ。

 

そういうわけで、結果的にだが、この作品は多分いい小説なのだと思う。訳が分からないものを評価するというのはなかなか難しいことだなと思うが、たぶんそういっていいのだろうと今の時点では思っている。