文化系ブログ

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赤染晶子『乙女の密告』は、ここのところなかった「何かを考えるための物語」だった。

乙女の密告 (新潮文庫)

 

2010年のことだが、赤染晶子『乙女の密告』を読んだ。

 

私は基本的にその年の芥川賞作品は読むことにしているので、この文章も2010年の8月にかいたものだ。

 

この小説は、「乙女」の世界と「アンネの日記」の世界が交錯して行き、アンネ・フランクのある種の問題発言、「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」という言葉の意味を読み解いて行く、という作品、だと思った。この辺受け取り方は選考委員の間でも様々で、石原慎太郎などは「所詮ただ技巧的人工的な作品でしかない。……アクチュアルなものはどこにも無い」などと切って捨てているが、それはさすがに受け取り方としてもったいない気がする。

 

こういう構造を持つ作品として、思い浮かぶのは足立巻一『やちまた』だ。これは足立自身の人生と本居春庭(宣長の長男で、盲目になりながら日本語文法の研究を進めた人)を調べて行く道行きが上下二巻の大冊で描かれていて、学生時代に読んで深く感銘を受けた作品だ。足立の世界と春庭の世界が交錯して、生複合と呼べる世界が展開している、というのが当時の誰かの評にあった。

 

『乙女の密告』という作品は京都の外語大生の「乙女」の世界というある種特殊な世界を舞台にしている。この世界はどうも私などにはよくわからないし、腐女子だとかゴスロリとか嶽本のばらとか女オタとか801とかどこが一緒でどこが違うのかよくわからない。

 

ただ構造として、乙女の世界とは「真実よりも噂が大事で噂を立てられたら終わり」という世界である、と設定されている。乙女の世界というのは多分、作者にとってリアリティのある世界なんだろうけど、その設定がある種の独りよがりさであんまり意味のない壁を作っている気がする。本人がそういう「乙女の世界の旗手」として乙女の世界の宣教にのりだそうというならまあそれはそれでいいのだけど、そうでなくもっと普遍を目指すスタンスがあるなら別に乙女の世界でなくても「真実より噂が幅を利かす」というのは人間社会全般にあることだし、もっと普遍性のある設定にできたのではないかという気がする。

 

というか、「乙女」という言葉を使わないだけで全然抵抗感がないと思う。ま、そういうものは好きずきなんだろう。選考委員でも村上龍石原慎太郎宮本輝の三人はかなりの抵抗を示している。女性委員にはあまり抵抗はなく、むしろ面白がる種類のもののようだ。黒井千次はかなり読みこもうとしている。池澤夏樹が世界文学レベルで読もうとしていて、そういう目で見て合格点なら多分まあいいんだろうということにはなるんだろうなと思う。

 

ドイツ人教授と人形の関係も、ちょっと戯画化しすぎていて意味が分からなくなっている。まあ、これはわざと意味を分からなくしたのかもしれない。つまり、冗談なのか不気味さを狙っているのか分からないところに放り出している、という感じだ。昨日読んだ時のメモには、「このあたりは関西的な率直さが裏目に出ている感じがする」と書いたのだけど、今読み直してみるとそれも狙いなのかなという気もしないではない。

 

まあ、読んだ内容を思い返してみると、心がざわざわするところがたくさんあって、それは乙女関係のところもあるけれども、やはりアンネ・フランクの言葉を解釈するところに関わって行くところが多い。どこにいても常にユダヤ人でしかないユダヤ人が「私はオランダ人になりたい」ということの意味を、「私は他者になりたい」という叫びだと作者は解釈する。

 

ドイツ人教授に課せられた暗唱を何度も何度も練習するのだが、何度繰り返しても必ずそのくだりを忘れてしまう。そして、「思い出すことが大事なんだ」というヒントがあって、「私は他者になりたい」という言葉はイコール「私は自分自身である」という宣言であり、それは「アンネ・フランクユダヤ人です」という「密告」なのだということになる、というわけだ。自分が自分であると宣言すること自体が自分が訴えられるべきものであると告白する宣言でもある、ということになる。それが噂ばかりの乙女の世界から脱し、真実の世界に生きるという宣言でもある、ということになる。アンネ・フランクを「密告」したのはアンネフランク自身だった、というわけだ。謎解きが形而上的な話にずれていることの良しあしも評価を分ける分岐点にはなっているだろう。石原なんかはそれもあってアクチュアリティがないととらえているんだろうと思う。

 

この作品は多分120枚程度のものだと思うが、その枚数で扱うにはもともと大きすぎるテーマなのではないかなという気がする。「やちまた」のような大部で辛抱強く追求して行かないと、消化不良になってしまう気がする。テーマ自体も半端なものではないし、技術もあるので、テーマと枚数の不釣り合いがなければもっと広く受け入れられる魅力的な作品になったのではないかと思う。まあ、あまり長い作品になってしまうと芥川賞の対象ではなくなってしまうという難点はあるわけだけど。逆に言えば、芥川賞狙いの作品で扱うようなテーマでは本来ないということだと思う。

 

読みやすさ、という点で言えば、私には読みやすく、わりと短時間で読むことが出来た。川上未映子『乳と卵』や町田康『きれぎれ』は読むのに相当苦労したのに比べると対照的で、ある意味でラノベ的なのかもしれない。いや、もちろん全然違いますが。

 

全体的に自分としてどう評価するかな、と考えてみると、基本的にそんなに嫌いじゃない、ということだろうか。こういう何かのテーマについて考える体の小説というのは、焦点がはっきりしていてそういう小気味よさがある。次の作品が面白いかどうかは読んでみないと分からない、と思うけど、何ていうかこういう作品が芥川賞を受賞したというのはある種画期的なことなんじゃないかとも思う。つまり、いい傾向というか、私がこうなってほしい傾向に近い気がする。まあ、受賞作品にそういう流れが出来るかと言うとそんなこともないだろうけどね。というわけで、いろいろな点から、前向きに評価したいと思っているのです。