文化系ブログ

アート、小説、音楽、映画、文化に関すること全般を雑談的に。

【「芥川賞受賞者なし」は制度疲労か作家の力不足か】

第145回、つまり2011年上期の芥川賞は「受賞者なし」だった。

 

それについての山田詠美のコメントを読む。いろいろと回りくどいことも行っているが、結局は円城塔をどう評価するかと言う問題で、彼に芥川賞を与えると言うことに抵抗がある人が選考委員の過半数いたということなのだなと思った。私は彼の読者ではないのでよくわからないが、要するにSF的過ぎると言うことらしい。

 

山田のコメントもいろいろと含蓄があっておもむきが深いが、要するにまた芥川賞と言う制度というか機関というかがまた時代の変化を読みきれない、機能不全に陥りつつあるということではないかと言う気がする。ちょうど1980年代、まさに山田詠美島田雅彦、そして誰よりも村上春樹芥川賞を受賞させそこない、それでいて該当者なしを連発していたあの時期を思い起こさせる。

 

あの時期の反省から1990年代以降原則的に受賞者を出すと言う方向にシフトしたはずなのだが、前回二人の受賞者を出した反動からか、前々回に続いて受賞者なしとなった。円城塔が(この時点では読んでない、あとで受賞したときに読んだが)村上春樹に匹敵するような存在になったとき、今回の審査員たちはまた忸怩たる思いにとらわれることになるかもしれない。

 

でもまあ、山田詠美は結局は「出版社には悪いが候補作を集めなきゃいけないというような感じで集められたのではないか」と言っていて、要するにレベルが低かった、ということを言いたかったようだ。まあこういうものにはいろいろな人のいろいろな意見があるからなかなか難しいかもしれないなとは思う。

 

当事者たちにとっては洒落にならない話ではあるのだが、こういういろいろな現象をみると日本の文学の現在(制度も、内容も)のようなものも見えてくる部分がある。

 

文学の世界で一番社会とつながっている芥川賞というイベントが、文芸5誌に掲載されたという極めて狭い世界の中で選ばれている(黒田夏子氏の早稲田文学と言う例外はあったが)というのもよく指摘される問題だし、保守的な選考委員が是と言わないために新しい傾向の作品が受賞を逃すと言うのもよくあることだ。石原慎太郎だって、村上龍だって、当時の一部の選考委員に大反対されながら受賞している。

 

私は最近文学というものは村上春樹の単行本と芥川賞作品しか読んでいないのだけど、それだけで結構見えてくるものも多い。私は多分本当の文学好きではないので、そういう現象面で起こってくることの方に興味が引かれてしまうということもあるのだと思うけれども。

 

しかし、文学って何なんだろう。ある種の絢爛さ、ある種の意匠こそが文学の本質なんだろうか。生きるための指針なんだろうか。自分が引かれるのはその二つと、あとは文章を読むときに身体的快感があるかどうか、のような気がする。絵でも映画でも音楽でもなく、文学でしか表現できない何か。文章の質感とコンテクストの配置の妙技。いろいろな業師もいるが、自分が読みたいものは果たして何かと問われると結構難しい。

 

自分が読みたいのは、「読むことで何か自分が変わる」ものなんだろう。元気が出たり、感動したり、何かに気づいたり、などなど。でもだからこそ、一つの方針でがんばり続けているときにはそれに浸食されそうで読みにくい、ということもあったりする。

 

まあ芥川賞というのは、形のはっきりしたイベントなので、解釈する方も解釈しやすいので、だからこそ私のようなものでも読む気がするということがあるんだと思う。

 

文学を読まない層にも影響を及ぼすような、大きな作品が出てくることを期待したいと思っている。