文化系ブログ

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村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。(その1)「状況への過適応」と「楽園追放」

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

私は、村上春樹の長編小説の新刊が出るときは、必ず買うようにしている。とは言っても、それは『1Q84』以来のことなので、彼の長編小説の刊行史からすれば、ごく最近のことだ。『多崎つくる』も発売日か、それに遠くない日に買って、すぐに読んだ。以下はそのときに書いた感想。

 

書評ではなく紹介記事でもないので、読んでもストーリーはわからないが出てくるキャラクターや事件についての内容は当然ながらいわゆる『ネタバレ』になるので、これから読もうという人はご注意いただきたい。小説というものは自分の経験から言ってもあまり先入観を持たないで読んだ方が普通は面白い。この小説も多分そうではないかと思う。

 

この小説を読んで、私がまず最初に感じたのは「過適応」の問題だった。状況に適応しすぎるということ。適応しすぎて自分の存在が不全になってしまうということ。そしてその状況が失われることを恐れて不安になり、不安定になってしまうこと。アカ・アオ・シロ・クロとつくるでつくる5人の楽園状態への過適応。そしてその崩壊とともに始まるそれぞれの人生。これはそういう意味では「楽園追放」の物語として始まる。

 

私はこのような友情の楽園状態を経験したことがないから「楽園」への過適応ということはないのだけれど、生きるために「ある生きるのに困難な状況」に過適応してしまったという経験はあり、いわばそういうストックホルム症候群的な病を、おそらくは現在も生きている。(2014年現在はこの認識はなくなっている、そういえば)

 

この過適応というのは便利な側面もあり、たとえば朝起きたら一番に英語の通信教材をやる、と決めたら必ずできるので、ものすごく速く教材をやり終えることが出来た。通信添削なども必ず期日までに出していたし、まあそういう意味では受験とか学習というものはある種の過適応的な素質みたいなものがあった方がうまくいくという側面があるとはいえる。

 

しかしそれは気を付けないと自我を損なうものであって、いわゆる燃え尽き症候群とか言うのもそういうものの一種なのだろう。まあこのあたりの私自身の問題はまたどこかで書こうと思うけれども、過適応によって維持された楽園が崩壊した=楽園から追放された時に、主人公つくるは衝撃のあまり生きるか死ぬかの状態になり、彼の表現によれば一度死ぬ、ということになる。

 

精神的に生きるか死ぬかの状況、みたいなものはもちろん私も経験したことがあるのだけど、でもその時に「一度死んだ」という感じは持ったことがなかった。しかし、このままではだめだ、と思ったことは確かで、それから私はいつもなるべく目標を持って生きるようになった。目標を持って生きていないと自分がどこに行ってしまうかわからない感じになった。まあだからそういうのはある意味での過適応的な特性と表裏ではあるのだが、「とにかく生きる」ということが最大の目標にできたのは、たぶんよかったのだと思う。

 

まあこの小説の話に戻すと、楽園への過適応状態の中でのある種の不全感と、楽園状態の崩壊の予感への不安からの自我の崩壊、楽園追放後のそれぞれの人生の中で、それぞれの抱える問題からの楽園への距離感と、自分なりの楽園との向き合い方。まあ私はそういうものを、むしろ逆に「生きるのが辛い状況」からの距離感の問題として変換して読んでいたわけなのだけど。

 

いずれにしても、主人公つくるにとって楽園状態とそれからの追放という問題は、「未決と書かれた引き出し」に放り込まれたまま何十年もおかれたものという意味で、自分にとっての「生きるのが辛い状況」というものと重なってきていて、そういうものへの自分がどう改めて踏み込むか、という問題として読んでいた部分が大きい。

 

この小説のテーマは楽園追放と、その神話的意味の探索、その過程で明らかになっていくものと失われていくもの、というふうに私は読んだわけだ。

 

(その2)に続きます。