文化系ブログ

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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その6)生の色彩を取り戻すことは、死すべき運命との引き換えでしか得られない

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

(その5)からの続きです。

 

しかし、人は誰しもできれば晴れ晴れと生きていきたいから、解決できる範囲では解決したいと思うし、しかしその範囲でなんとかしようとすることが、その範囲を超えて自分の存在を脅かしてしまうこともよくあることだ。

 

沙羅の求めにつくるは自分の過去を取り戻そうとし、そして確かにつくるは自分の生の色彩を取り戻していくのだが、しかしだからこそ沙羅の存在が今までになく大きくなり、つくる自身が存在できるか否か、生き続けて行けるのか否かの許認権を握るまでになってしまう。そしてその沙羅がつくると生きるのかどうか、つまりつくるがこれからも生きられるのかどうかが次の日に示されるという未決の夜で、物語は終わる。自分の生を取り戻すということは、自分の生が終わるということなのかもしれない。

 

多分、緑川の語る神話の本質は、そういうことなのだ。人は触れたくない、と思っていた「未決の引き出し」に誠実に向き合うことで、その人本来の色彩や輝きを取り戻す。それさえあれば他のものすべてを詰まらないと感じ、それだけで満足してしまうような感覚を得るだろう。しかしその感覚を渡されたものは、遠からず死ななければならない。人が人の生の輝きを得るということは、人が死すべき存在であるということと引き換えにしか得られないのだ。

 

ファウストが、「とまれ、世界は美しい」と言ったらメフィストフェレスに魂を奪われる、という話のように。そういえば緑川はその話を、悪魔と絡めて語っていた。

 

灰田にとっては作への思いを現すことがその、自らの色彩を取り戻すことであり、つくるがその思いに答えないということが生の終わりであって、ある意味それは「最初から分かっていた」ことなのだろう。灰田のくだりがラストで何も触れられていないのは単にそれが伏線として未回収なのではなく、それが神話次元の話であって、ある意味現実と関わりのない話であるからだろう。

 

(その7)に続きます。