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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その7)未決の引き出しとの向き合いかた

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

 (その7)からの続きです。

 

話は、私自身のことになる。『多崎つくる』を読んで、その問題意識に刺激されて、私自身のことについて考え始めている。

 

私は今、これからも物を書いていく、物語を書いていくにあたって、その「未決の引き出し」をどうやって開けていくか、という問題と直面していて、この小説はそれを考える上でのヒントや示唆に満ちている、と思った。そういう意味でこの小説は私にとって「必要な小説」であり、これを「今読め」と示されたことはシンクロニシティ以外の何ものでもない。

 

しかし考えてみると、私個人に限らず今の日本は、「未決の引き出し」を開けるかどうかを迫られている状況なのかもしれない。その引き出しの中には鬼が出るか蛇が出るか、それとも「希望」というものが残っていたりするのか、それすらわからない。

 

この小説が理解され、読まれていくとしたら、それはそういう部分でなのかもしれないと思う。村上春樹の過去の作品と比較してみたり、様々な哲学や心理学を引き合いに出して描かれた論考やレビューをいくつか読んだが、私は結局、この小説を「自分の問題」としてとらえることしか結局は興味が持てなかったし、これからもきっとそうだろうと思う。

 

そう、私という人間の問題と言えば問題なところは、昔からどんな話を読んでも聞いても自分の問題としてとらえてしまうところ、自他の境界があいまいになってしまうところだった。しかし、今まで私は村上の作品を、自分の問題としてとらえる、つまり共感することは一度もできなかった。この小説は初めて、最初から最後まで「自分の問題」として読むことが出来た。自分にとっては村上春樹読書史上画期的な事件なのだ。

 

だから正直言って、この話が私以外の人にとって面白いのかどうか、本当はよくわからない。この話はあまりに「個人的に面白い」のだ。だから私にとって問題と感じていることを同じように問題と感じている人なら、面白いだろうと思う。

 

(その8)に続きます。