『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その8)村上春樹を読む人は多数派なのか少数派なのか
(その7)からの続きです。
描写においてもやはりすごいなと思うところはいくつかあって、若い女性の輝くばかりの魅力が、あっという間に失われていくそのあたりの描写とか、背中に何かスイッチのようなものがあるというような感覚とか、なんかそういうものはすごいと思うのだけど、それってみんなが面白いのかどうかよくわからない。単純に、『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハンとか、『海辺のカフカ』の四国の森の描写よりも、今回のフィンランドの平原の描写の方が描けていると思うのだが、そのあたりも。
まあとにかくそういう問題認識とか面白さのとらえ方という面においては私は少数者であるという自覚があるから、ハテ本当は一体どれくらいの人が村上春樹を面白いと思うのだろうかと思うのだが、しかし思った何十倍も売れているところを見ると、私の問題意識と似たものをも持った人は実はたくさんいるのではないか、私は思ったよりも少数派ではなく、実は結構多数派なのではないかという幻想を持ってしまったりもするのだった。
もちろんそれが幻想だという認識は村上春樹新作発表という熱風が通り過ぎればすぐ、また戻ってきたりはするのだが、それに勇気づけられることもまた、私にとってものを書くことの原動力にもなっている、ということに、いつも希望は持つのだった。
(終)