文化系ブログ

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篠原ウミハル『図書館の主』第66話「ひねくれ者」はルナールの『にんじん』を取り上げていた。

図書館の主 7 (芳文社コミックス)

 

2月28日に出た『週刊漫画Times』に、『図書館の主』第66話(後半)が掲載された。

 

このマンガは、とある私営の児童図書館を舞台に、子どもたちや司書たちの人間模様を描きながら、児童書と関連付けて、児童書が子どもたちだけでなく、多くの人々の人生の参考になるということを描いている。

 

前回と今回、取り上げられていたのは、ルナールの名作『にんじん』。読んだことのある方はご存知だと思うが、一言で言えないような内容の話だ。

 

にんじん (角川文庫クラシックス)

 

よく知られているのは、主人公のにんじんが、お母さんに冷たく扱われたり叱られたりするところ。私も子どものころ、たしか学習雑誌で読んで、この話のどこが面白いんだろうと思った覚えがある。

 

この回の中心になる少年は、大人びた、素直でない少年。それが主人公である司書の御子柴にこの本を薦められて読んで、楽しくはないけど、分かる気がする、自分もにんじんみたいな気がする、と言う。

 

しかし少年の兄が、この本を読んで激怒し、図書館に抗議に行くのだ。なぜこんな、母親が子供を虐待するような本を、弟に薦めたのか、と。

 

それに対して御子柴は、確かにこの本は楽しいだけの本ではない。「文章自体は読みやすいが、登場人物の心境は複雑極まりない。」と言う。でも、「その複雑さをこいつなら自分なりに受け入れられるんじゃないか」。そう思ったからこそこの本を渡したのだと。

 

本との相性、ということは確かにある。誰が読んでもそれなりに面白い本もあるが、ある人たちには凄く面白いのに、ある人たちにとってはどこが?と思うような本。

 

そういう本は、すべての人に愛読されて行く、というわけにはいかない。でも、すべての人に読まれる必要もないし、またそれが好きでない、読めないからと言って全然変ではない、という本があることもまた確かなことだ。

 

「母親がにんじんに冷たく当たるのは、自分に似た人間に嫌悪感を持っているからか。それともいするがゆえに厳しく躾けて自分のようにならないよう育てているのか。たとえばそれが同時に存在するとしてどちらも嘘じゃないんじゃないか。もしその気持ちが場面によって入れ替わったとしてもどちらが正解か本人にもわからないだろう。」

 

『にんじん』は、人生はこうあるべきだ、という信念を持っている人にはあわない本である気がする。でも、あるがままの人生をそういうこともあるよね、と受け入れられる人にとっては、ああ、そういうもんだよなあ、と共感を覚えるところがあるのではないかと思う。

 

私も子どもの頃以来、『にんじん』は読んでいないが、子どもの頃から『ルナール詞華集』は好きで、中一のとき教科書に出てきてから、よく読んでいた。この本にも、人生を見つめた言葉がたくさん書かれていて、それは私は好きだった。

 

今読むとまた、『にんじん』も違う印象を受けるのかなと思う。『草子ブックガイド』など、読書を扱った漫画はいろいろあるのだが、自分の読書遍歴を振り返って、また違う読み方ができるのではないかと思ってみることも、人生をまた豊かにして行くことかもしれないなと思う。