トランストロンメルの詩集『悲しみのゴンドラ』を読んだ。(1):2011年のノーベル文学賞受賞作家は「強い詩」を書く詩人だった。
トマス・トランストロンメルの詩集『悲しみのゴンドラ』増補版(思潮社、2011)を読み始めた。
トランストロンメルと言ってもぴんとこないと思うが、2011年のノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人だ。
芥川賞とノーベル文学賞はなるべく読むことにしているのだが、「スウェーデンの詩人」だという時点であまり興味がなくなってしまい、それはどうも日本の出版界も同じだったらしく、検索してもこの一冊しか日本には出回っていないようだった。
この本は1996年に書かれ、1999年に日本語に翻訳されたもので、ノーベル文学賞の受賞を受けて昨年それに関連する「栞」が付されて増補されたものだ。
思潮社は『現代詩手帖』を出している詩の専門出版社だが、こんなことでもなければ詩集の増刷などほとんど考えられないのだけど、こんなことがあってもこの一冊しか出回らないくらいにしか、現代日本において詩というものは関心を持たれていない。
しかし読み始めて、というか朗読をはじめて、この人の詩の持つ圧倒的な「つよさ」にすごく気持ちのよい、嬉しい、わくわくするものを感じた。私はこういうのが好きだ。
詩の「つよさ」と言っても分かりにくいかもしれないが、日本で人気のある詩というのは基本的に「よわい」詩だと思う。
日本人はそういう詩の方が好きだし共感する、それはもちろん私もそうなのだけど、それは多分「自我の殻」があまり強くないということとも関係しているのだと思う。「よわい」詩というのは例えば石川啄木であり、中原中也であり、谷川俊太郎の多くの、抒情的な詩だ。
「つよい」詩というのは私のイメージでは例えば宮澤賢治なのだが、その違いは世界が外に開いているか、内に開いているかの違いといえばいいだろうか。
詩の世界というのはまた複雑で、啄木にしろ中也にしろ谷川にしろ詩の主流から見れば異端、傍流なのだけど、しかし人気があるのは圧倒的にこういう人たちなのだ。
しかし主流の人たちの詩が「つよい」かというと必ずしもそうだとは思えない。「蝶々が一羽韃靼海峡を渡っていった」なんていうのはつよい方だと思うのだけど、だから何、という感じがする。
強さというのはたとえばダンディである、つまり「かっこいい」ことがい必要だけどそれだけではなくて、ユーモアとか諧謔性を感じさせ、そして自分のことだけでなく世界のことをうたっていなければならない、と思う。
日本の詩人で世界のことをうたっているというのは、少々これもまた異端、というか仏教的な観点から世界をうたっている宮澤賢治くらいしか思いつかない。そして言うまでもなく宮澤賢治もまた、詩の世界では本流とはいえない。
トマス・トランストロンメルの詩はそのすべてが含まれていて、つよい。
ユーモアや諧謔性というのもある意味かっこよさの条件だから、そして世界へのアプローチが、現代ヨーロッパの教養人のものなのだけど、今までそういう人というのはどうしても鼻につくものを感じていたのだけど、トランストロンメルの詩を読んで理解できる、共有できるものがあるんだということを強く感じた。
私はもちろんヨーロッパの教養人ではないけれども、日本の無教養人であっても共有できる要素があるというのは心強いことで、つまりはこういう人たちと連帯して世界を変えていくということは案外可能なんじゃないかと思えるということだし、大江健三郎や村上春樹みたいな人たちだけでなく、私みたいなバカでも共有できる世界が広々とあるなら、案外何かをしかけることは可能なんじゃないかと思ったのだった。
まあ世界を変えると言ったら大げさだし、アンガージュマンが自分のやるべきこととは思えないからほんの少しのことなのだけど、自分が存在し、何かをやることでほんの少しだけ世界がましになるのなら、まあ存在した意味、やった意味があるというものだと思う。
(2)に続きます。