文化系ブログ

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村上春樹『女のいない男たち』を読んでいる。

女のいない男たち

 

村上春樹『女のいない男たち』(文藝春秋、2014)を読んでいる。

読んでいる、というのはまだ読了してないからで、前書きと最初の『ドライブ・マイ・カー』、それに『イエスタデイ』というビートルズの曲から題名を引用した二作を読んだところだ。

作品としては、『ドライブ・マイ・カー』は落ちがぴたっときまった、という感があるが、『イエスタデイ』の方は何となくもにゃもにゃした感がある。ただ、『イエスタデイ』の方は村上春樹自身の自画像に近い何かが書かれている部分がある気がして、そのあたりで面白いと思った部分が大きい気がする。

ただ、ここではそういう真っ当な作品批評というよりは、この作品を読んで気がついたこと、という形で書いてみようと思う。

最初の『ドライブ・マイ・カー』を読んで、村上春樹の小説って、自分自身のことについて考えているいいわけみたいなものに正当性を与えてくれるところがあるんじゃないか、と思ったのだ。

それはある意味、読む人の弱みに付け込む小説だと言えるかもしれない、と。

『ドライブ・マイ・カー』はなくなった妻がほかの男と寝ていることを知っていた男が、なぜあんな「大したことない」男と妻が寝たのか、ということがどうしてもわからない、と専属ドライバーの女性に吐露すると、彼女は「奥さんはその人に心なんか魅かれてなかったんじゃないですか。だから寝たんです。」と答える。そしてそれを読んで、私はああなるほどと思う。そして、そういうことってあるよなあ、と思う。

そういうことってある。かもしれない。「心なんて引かれないからこそ、寝た」という逆説。欠損してしまった自分の何かを埋めるために、(作中では原因不明で生まれたばかりの娘を失ったことがきっかけのように描かれている)空っぽの相手と寝る、という行為。確かに、わかるような気がする。

しかし、それを「わかる」と言っていいのだろうか?

いままでだったら私は、「わかる気がする」と言って肯定していただろう。そして、そこにある問いかけ、「だからと言って空っぽの相手と寝るのはいいことなのか?」という問いかけに向き合うのではなく、無意識のうちに無条件に肯定していたような気がする。

もちろんこれが、誰かの相談ごととして持ち込まれて告白されたら、「だからと言ってそういう相手と寝るのはあなたにとっていいことだとは思えない」と答えていただろう。でも、これが村上春樹の小説だから、そしてまるでその結論だとでも言うような形で語られているから、思わずそれを肯定してしまう、そんな心の追いやり方が、彼の小説表現にはあるのではないかと思った。

小説を読んでいない、普段の私なら、それは少なくとも無条件で肯定できることではない。むしろかなり強く否定する気がする。しかし、村上春樹の土俵に上がってそのことについて読んでいると、そのことについて考えたつもりになっているうちに思ってもいない結論に導かれてしまう、というところがある。

たぶん、つまりそれは、人の弱さというか、弱さに弱さを重ねて肯定してしまうところが村上春樹の小説にはあって、そしてそのようにして自分を許すことがとりあえずは必要だったり、ないしは許して終わりにしてしまいたい人がとてもたくさんいて、その人たちにとってはすごく強い肯定のメッセージになっているのではないかと思ったのだ。それを「読者の弱みに付け込んでいる」という言い方をしたのだけど。

もちろん、それが悪いことであるとは、一概には言いきれないことは私にもわかっている。どんなに危なっかしい新興宗教でも、それに入信することで本当に救われる人がいないとは限らない。怪しげな遺伝子操作技術で一週間寿命を延ばして、それがその人の為すべき仕事を達成させて人類に大きな利福をもたらすことだってないとは言えない。

しかし、村上春樹の小説には「そういうところ」がある、ということは、自分自身としては理解しておきたいと思ったのだ。

もちろん、小説というものは多くの場合、そういう部分があると言えなくもない。明治や大正時代にも、漱石の『それから』や『こころ』を読んで自分のあり方を肯定し、ほっとしている青年は多かっただろう。だからこそ、文学に耽溺することがろくでもないことのようにいう人がいたわけだけれども。

小説を読んでいるとき、人は必ずしも前向きではない。もちろん常に前向きである必要はないけれども、小説は面白いからこそ、読んでいて自分がどちらの方向を向いているのか見失うことも多いのだと思う。

だからときどき、小説に耽溺している自分にふと気がついて、はっとしてみるのもいいのではないかと思ったのだ。

『ドライブ・マイ・カー』を読み終えて、そんなことを考えていた。