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E・T・A・ホフマン(上田真而子訳)『くるみわりとネズミの王さま』(岩波少年文庫、2000)を読んだ。

クルミわりとネズミの王さま (岩波少年文庫)

 

E・T・A・ホフマン(上田真而子訳)『くるみわりとネズミの王さま』(岩波少年文庫、2000)を読んだ。

これは先日も書いたけれども、スタジオジブリの広報誌『熱風』7月号で取り上げられていたからで、それは長編映画から引退した宮崎駿の引退後初の仕事、「三鷹の森ジブリ美術館」における企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の特集の中で、だった。

もともと宮崎さんはバレエの『くるみ割り人形』のお話をもとに描かれたアリソン・ジェイさんの絵本(蜂飼耳訳)『くるみわりにんぎょう』(徳間書店、2012)を読んでこの話に興味を持ち、そしてホフマンの原作も読んでこの展示を企画し作ったのだという。

 

くるみわりにんぎょう

私はまだ残念ながらジブリ美術館の展示は見に行けていない(完全予約制で毎月10日に次の一月間の予約を取るようになっている。もう7月8月は完全に埋まっている。夏休みだから仕方がないんだろうけど)、というかジブリ美術館自体にまだ行ったことがないのだけど、『熱風』を読んでいろいろと興味を持った。というのは、この特集に文章(談話を含め)を寄せているのが宮崎監督自身、絵本を描いたアリソン・ジェイさん、ドイツ文学者の若松宣子さん(若松さんの解説でかなり興味を持った)、マンガ家で『風と木の詩』や『空が好き!』の作者である竹宮恵子さん、宮崎監督のインタビュー本を何冊も出している『ロッキン・オン』の渋谷陽一さん、それに『One Piece』の作者であるマンガ家の尾田栄一郎さんという豪華なメンバーなのだ。

 

舞姫(テレプシコーラ) (3) (MFコミックス―ダ・ヴィンチシリーズ)

くるみ割り人形』は、まあ、私のイメージとしてはチャイコフスキー作曲、プティバ振付のバレエだ。姪っ子たちのバレエの発表会を見に行った、その印象が一番強いかな。DVDを借りてきてロシアあたりのバレエ団のものを見た覚えもある。あとは、山岸凉子さんの『テレプシコーラ 舞姫』で主人公の六花がクララを踊る、その物語のなかのストーリーとして読んだもの、というイメージで、いずれにしても夢見がちな少女が一夜の素敵な夢の世界に行った、という以上の印象を持ってはいなかった。アリソン・ジェイさんの絵本も基本的にはそういうものだ。

しかし、この特集の中で語られているホフマンの原作は、どうもそういうものではない、という雰囲気が漂っていた。考えてみたらホフマンと言えば、19世紀前半の有名な幻想作家だ。そのホフマンが書いているのだから、考えてみたら一筋縄でいく作品であるはずがない。

まず宮崎さんの『くるみ割り』評。「この本、読んでいくと全然つじつまが合ってないんです。でもそれに対して、まるで原作者のホフマンが「きみ、何でつじつまがそんなに必要なんだね」と言ってる感じなんです。」と言ったり、「この話って頭がおかしくなるように書いてありますね。直訳したものを読んでいくと、もう口から出まかせ、いくらでも来るぞという感じで(笑)」と言ったりしています。宮崎さんが「頭がおかしくなる」というくらいだから、これは面白いぞ、と思ってしまう。

また尾田さんも、「原作は正直、読んでも理解できなかった。(笑)ぼく、自分で絵を描きながらお話を追ってみたんだけど、それでもだめだった。だから、宮崎さんはどうやって理解したんだろうと非常に興味を持ったんです。展示の内容を紹介するパネルに「わからん」と宮崎さんのコメントが書いてあって、すごく安心しました」と言っている。

この二人に共通するのは、アニメ作家でありマンガ家であること、つまり物語を「絵」でとらえる人、だということがあると思う。この作品は、読んでいるうちに現実の世界かと思っていたら異世界に行っていたり、人間だと思って読んでいたら人形だったりということがよくあるから、そうするといったいどこから人形になっちゃったんだろとか、どこからが夢の世界なんだろいうの絵が描けなくなって頭が混乱する、ということがよくあるのではないかと思った。

私はお話は必ずしも視覚的なイメージを再現しながら読むわけではないので、読んでいてそういうところに出くわすと、「あ、思ってたのと違ったのね」と思って修正するとそのまま続きを読む、という感じになるのだけど、絵をかいてしまった人はイメージの持って行き場がなくて四苦八苦する、ということはあるのかもしれないと思った。

まあつまり、確かにこの話はずいぶん途中で空間を捻じ曲げている感じがあるのだけど、それを含めてすごく面白いと私は思った。つじつまが合ってない、という感じは私はそんなにしないのだけど、現実の少年少女が異世界に行って、そこでいろいろな困難にぶつかり成長して帰って来る、というファンタジーの定型に慣れきっていると、こういう開かれたオチというか、最後は行ってしまったきり帰って来ない、というお話を読むと自分の中で気持ちの落とし所がなくなってしまって変な感じになる、ということはあるのだろうなとは思った。

そう、このストーリーの最大の特徴は、クルミわり人形と素晴らしい夢の世界に行ったマリーが一度現実の世界に帰って来たのだけど、その素晴らしさを誰にも分かってもらえなくて、結局再び夢の世界に行って夢の世界でクルミわり人形と結婚し、その世界の王と女王になるという「オチ」にあるのだと思う。

夢の世界と現実の世界は等価ではない、と私たちは思っているわけで、特に大人になると現実の世界の重さが身に沁みてきて、ファンタジーと言っても表面的な読み方になりがちで、現実の自分の存在が脅かされるような深いところまで降りて行ってしまうような読み方はあまりしなくなる人が多い、つまり日常の慰藉以上のものではないとこういう物語をとらえる人が多くなるように思う。

でも本来、物語というものはそんなチンケな安全なものではない。もっとやばいもので、下手をしたら現実に帰って来られなくなる可能性すら秘めた力の強いものであるわけだ。私も子供の頃、そういう物語をよく読んで、結構子ども心に戦慄を覚えた作品はよくあったけれども、いまでももっとも良く思いだすのは、「ナルニア国ものがたり」のシリーズだ。このストーリーは、主人公であるイギリスの少年少女たちが、別の世界にある「ナルニア」に不可抗力で行ってしまい、そしてある冒険をして現実世界に戻って来る、というのが基調になっている。ある意味安心して読める物語構造になっているわけだ。

 

さいごの戦い (カラー版 ナルニア国物語 7)

ところがシリーズ7冊目、最後の作品である『さいごの戦い』は違う。ナルニアは滅びてしまい、ナルニアに飛ばされたペヴェンシー家の兄弟たちも、現実の世界では死んでしまって、永遠に「真のナルニア」で生きることになるのだ。これは、作者であるルイスがある種の『神の国』として永遠の世界を描いているということなのだろうけど、小学生の時初めて読んだ時には文字通り戦慄した。

こんなに行く絵にも重層的に組み立てられてきた物語の世界に行った人たちが、帰って来ないなんて!と。

子どもにとって、「帰って来られない」というのはすごく不安なことだ。だから、それだけ、強く心に刻み込まれたのだと思う。今ではそれも一つの物語のパターンだと思っていて、でもやはりかなり強い構造の物語であることは間違いないと思う。ある種の呪いというか祈りというか、「ここよりもより素晴らしいここでない世界」への危険な憧れのようなものを感じるし、そしてそういう世界を身近に感じるという一つの才能に恵まれた人にとっては、どきどきするようなことであるわけだ。

考えてみると、私がそういう世界に憧れるようになったそもそものきっかけがこの「さいごの戦い」であった気がする。そして、そういう世界に自分の心が開かれるようになったのも、この物語に酔って「ここよりも素晴らしいどこか」の話を描きたくて仕方なくなった、ということであった気がする。

物語というものが、現実の世界に奉仕するためのものだ、という立場からすれば、それはとんでもないことであり、いかがわしいものであるということになる。現実と物語は、決して等価であってはならないからだ。ましてや物語が現実を凌駕するものであることは決して許されない。

しかし、その危険に踏み込んでいく人もいるわけで、ある意味自分はそういう人間なんだなと最近思うようになってきた。というか、もともとそうだったのを、この年になってようやく自覚してきたと言えばいいんだろう。

だから私にとって、このホフマンの原作は、とても面白いし何というか物語ってこういうものだしこうして描くものだよなあと読みながら何度も思った。現実よりも物語の方が面白いなら何も現実にこだわることはないんじゃないか、と思ってしまう。

もちろんそんなことを言ったって現実の世界に生身を持って生きている人間であることに変わりはないわけで、現実の世界に足場を築いて現実の風を浴びながら何とか生き延びていかなければ物語の世界に耽ることさえできなくなる。

ロマンとかメルヘンとかファンタジーとかをどう生きるかというのは、トライし甲斐のあるテーマだなと思う。

メルヘンとファンタジーの違いは、メルヘンの登場人物は異世界の存在に驚きを感じないが、ファンタジーでは最初戸惑いを感じていた登場人物たちが徐々にその世界に飛び込んで行く、と言うところが違うのだ、と言う若松宣子さんの指摘は面白かった。と言うことは、リアルと幻想(メルヘン)の間を行き来するのがファンタジーだ、と考えればいいのかもしれない。

私が思ったのは、自分自身の発想と言うのはどちらかというとメルヘンに近いなということ。であったときに、すぐ仲良くなったり不思議なことが起こっても驚くと言うよりそう言うものなんだと受け入れてしまう感じが自分にはあって、物語を書いていても、「こういうことが起こったら普通驚くよな」と思いながら、じゃあしょうがない、ここでこの子を驚かせよう、みたいな感じで不自然さをなくす努力をしている感じなので、なんというかそれ(驚かない)もありなんだなと思って、すごく世界が広がったというか許された感じを覚えた。

メルヘンの世界の住人は当然メルヘンの世界のルールに従って生きているわけで、驚くのが不自然なのだけど、それでは読者に違和感があって伝わらない、と言うのを、どの程度現実に引っ張ってくればいいのかいけないのか、そのへんのところはけっこう面白い問題なのだなと思ったのだった。

最後はちょっとまとまらなくなったが、この物語はとても面白かったし、こういうものを書いて行く上で、自分に取って凄く大事になることがいろいろあったように思ったのだった。