得られるものは、自ら求めたもの
久しぶりに、生け花の本を買って読んだ。『別冊太陽 川瀬敏郎「花に習う」』(平凡社、2007)。丸善で、何も買いたい本がなく、それでもいいかと思って立ち去りかけたとき、ぱっと目に入ってきたのがこの本だった。
以前少し生け花に凝った時期があって、とはいっても自己流なのだが、でもその時もきっかけになったのは川瀬さんの本だったと思う。白洲正子さんの対談で川瀬さんが何度か話をしていて、ああ、花を生けるということの本質に迫っている人なんだな、と思ったことがあった。
最近はずっとそういうものからは離れていたのだけど、ここの所新しいブログをいくつも作っていて、書いているうちにもっと書いていない自分の裏側というか、表に出していない方の本質というか、そういうものを書く場所をつくる必要があるかもしれない、と考えたりしていたのだ。
表が本質でないかというとそういうことでもない。人間の本質というのはどういうふうに光を当てるかで、表からと裏からでは違うように見えるだろう。もっと魂の奥にあるような衝動とか方向性のようなものをそのままぶつけたような文章を書かないといけないのではと漠然と思っていた。
この本を丸善のカフェで読みながら、ああ、いま心掛けるべきはそういうことだ、と思った。
得られるものは、求めたものだ、ということ。
だから何を求めるか、がすでにもう答えなのだ。
花で言えば、侘びを求めれば侘びの境地が得られる。喜びを求めれば華やぎが、厳しさを求めれば凛とした孤高の存在感が得られる。求めるべきは価値観だろうか。いや、違う。侘びは価値観ではなく、世界だ。求めるべきものは、世界なのだ。どんな世界がそこに現出すべきか。世界を、求めなければならない。望まなければならない。
陽春の椿の楽しみ方、それは一花三葉とか一花五葉とか、それなりの形があるようだ。次に梅。梅はその枝の形を喜ぶ。形の良い古い枝と、勢いよく伸びる若い枝。
そして次に語られるのが「凡庸な花」だ。凡庸な、という言い方に唖然としたのだけど、具体的には万作、花水木、木瓜などのことで、素朴で野暮ったい花や枝なのでそういう言い方をしているのだそうだ。そういうお花における「凡庸な」花をどう生かすか。それは「細工をし過ぎない」ことがいいのだそうだ。人のいい素朴な人を弄り回すとだめになってしまうのと同様、小さく切り刻まないで形の良いものを生かし、他の素材を使って引き締めることでそのおおらかな良さを楽しむ。いろいろな意味でなるほどと思う。
何を求めてブログをつくるのか。ブログをつくるのも、それがすでに答えなのだということを理解しておかなければならない。