文化系ブログ

アート、小説、音楽、映画、文化に関すること全般を雑談的に。

『いわさきちひろー27歳の旅立ち』を観た。(1)わたしにとってのいわさきちひろ

ゆきのひの たんじょうび (至光社国際版絵本)

 

2012年8月のことになるが、スタジオジブリの広報誌『熱風』で、いわさきちひろの評伝映画、『いわさきちひろ―27歳の旅立ち―』(海南友子監督作品)が特集されていた。それを見て、有楽町に見に行くことにした。

 

私は、いわさきちひろについてそんなに何かを知っていたわけではないし、そんなに興味があるわけでもない、つもりだった。

 

しかし、考えてみると大学生のころには練馬のちひろ美術館に行っているし、安曇野ちひろ美術館も行ったことがある。よく考えてみると、絵本作家に特別の関心がない私にしては、何か気になる存在であることは確かなのだ。

 

子どものころから、日本の絵本作家にはそんなに関心がなかったのに、それでもいわさきちひろだけは何か特別のものを感じていたのだ。それがなんだったのかは、よくわからないのだが。

 

以前から、共産党の代議士・松本善明の夫人であったことは知っていた。だからと言って社会主義リアリズムでもないし、「前衛的」な表現でもない。それなのにこの人の絵をどこかで強く認識していたのは、自分にとっていわさきちひろの絵こそが「子どもを描いた絵」のデフォルトになる絵であったからだと思う。鴨の雛が最初に出会ったものを親だと認識してしまうような「刷り込み」が、たぶん自分にはあったのだろう。

 

私は割合そういうことがあって、長い間ハルジョオンを「はな」というものだという認識が抜けなかった。ユリやチューリップのような派手な花でなく、なぜハルジョオンを「はな」と認識していたのだろうか。多分、名前の分かるような花は大人もなんという名前だと教えてくれるが、幼い私にハルジョオンの名前を聞かれた大人が分からずに「これは花だ」と教えたのではないかと思う。刷り込みというのは怖いものだ。

 

11時35分から有楽町のヒューマントラストシネマ。丸井の横のビル4階の小規模なシネコン。行ってみていかにもと思ったが、観客は年配の方が多く、車椅子の子どもなどもいた。座席は8割がた埋まっていたというところか。地味なドキュメンタリー映画としては、入りは悪くはないのだろうと思う。96分間。

 

内容は、『熱風』で読んでいたこともかなりあったし、知らないこともかなりあった。ちひろの作品や写真、手紙、スケッチ、様々な資料と関係者へのインタビューの場面を中心に構成されていた。

 

劇場で映画を見るのは久しぶり――2010年の暮れに見た『ノルウェイの森』が最後だった――で、たぶんそのせいでかなり疲れた。冷房はききすぎだし、トイレにも立てない。家でDVDを見るのとは違う。それなのに、ほかの劇場映画を見るのには腰が重いのに、なぜこんな地味なドキュメンタリーを観にわざわざ出かけたのだろう。それは多分、自分では自覚していないが、いわさきちひろだからなんだなと思う。

 

いわさきちひろとは自分にとって何なのか、それを確かめに行ったのだろうと思う。

 

(その2)に続きます。

篠原ウミハル『図書館の主』第66話「ひねくれ者」はルナールの『にんじん』を取り上げていた。

図書館の主 7 (芳文社コミックス)

 

2月28日に出た『週刊漫画Times』に、『図書館の主』第66話(後半)が掲載された。

 

このマンガは、とある私営の児童図書館を舞台に、子どもたちや司書たちの人間模様を描きながら、児童書と関連付けて、児童書が子どもたちだけでなく、多くの人々の人生の参考になるということを描いている。

 

前回と今回、取り上げられていたのは、ルナールの名作『にんじん』。読んだことのある方はご存知だと思うが、一言で言えないような内容の話だ。

 

にんじん (角川文庫クラシックス)

 

よく知られているのは、主人公のにんじんが、お母さんに冷たく扱われたり叱られたりするところ。私も子どものころ、たしか学習雑誌で読んで、この話のどこが面白いんだろうと思った覚えがある。

 

この回の中心になる少年は、大人びた、素直でない少年。それが主人公である司書の御子柴にこの本を薦められて読んで、楽しくはないけど、分かる気がする、自分もにんじんみたいな気がする、と言う。

 

しかし少年の兄が、この本を読んで激怒し、図書館に抗議に行くのだ。なぜこんな、母親が子供を虐待するような本を、弟に薦めたのか、と。

 

それに対して御子柴は、確かにこの本は楽しいだけの本ではない。「文章自体は読みやすいが、登場人物の心境は複雑極まりない。」と言う。でも、「その複雑さをこいつなら自分なりに受け入れられるんじゃないか」。そう思ったからこそこの本を渡したのだと。

 

本との相性、ということは確かにある。誰が読んでもそれなりに面白い本もあるが、ある人たちには凄く面白いのに、ある人たちにとってはどこが?と思うような本。

 

そういう本は、すべての人に愛読されて行く、というわけにはいかない。でも、すべての人に読まれる必要もないし、またそれが好きでない、読めないからと言って全然変ではない、という本があることもまた確かなことだ。

 

「母親がにんじんに冷たく当たるのは、自分に似た人間に嫌悪感を持っているからか。それともいするがゆえに厳しく躾けて自分のようにならないよう育てているのか。たとえばそれが同時に存在するとしてどちらも嘘じゃないんじゃないか。もしその気持ちが場面によって入れ替わったとしてもどちらが正解か本人にもわからないだろう。」

 

『にんじん』は、人生はこうあるべきだ、という信念を持っている人にはあわない本である気がする。でも、あるがままの人生をそういうこともあるよね、と受け入れられる人にとっては、ああ、そういうもんだよなあ、と共感を覚えるところがあるのではないかと思う。

 

私も子どもの頃以来、『にんじん』は読んでいないが、子どもの頃から『ルナール詞華集』は好きで、中一のとき教科書に出てきてから、よく読んでいた。この本にも、人生を見つめた言葉がたくさん書かれていて、それは私は好きだった。

 

今読むとまた、『にんじん』も違う印象を受けるのかなと思う。『草子ブックガイド』など、読書を扱った漫画はいろいろあるのだが、自分の読書遍歴を振り返って、また違う読み方ができるのではないかと思ってみることも、人生をまた豊かにして行くことかもしれないなと思う。

104歳で亡くなったまど・みちおさんは、本当は凄い詩人だった。

まど・みちお全詩集

 

詩人のまど・みちおさんがなくなった。104歳。天寿を全うした、と言っていいのだろう。

生まれたのは1909年。詩人として認められたのは昭和9年、雑誌『コドモノクニ』に応募した作品が北原白秋によって特選に選ばれたことだったという。

 

誰でも知っている代表作は童謡『ぞうさん』だろう。

 

ぞうさん ぞうさん おはながながいのね

そうよ かあさんも ながいのよ

 

ぞうさん ぞうさん だれがすきなの

あのね かあさんが すきなのよ

 

のんびりしたメロディと平易な歌詞。子どもの頃は何を当たり前のことを言っているのだろうと思っていたが、谷川俊太郎は彼の詩を『こんなにやさしい言葉で、こんなに少ない言葉で、こんなに深いことを書く詩人は、世界で、まどさんただ一人だ」と言っているのだと言う。

 

この「ぞうさん」について、まど・みちお本人の言葉として、「ほかの動物と違っていても、自分が自分であることはすばらしいと象はかねがね思っている」と語っていたのだそうだ。これはちょっと、はっと胸を突かれた。

 

自分が自分に生まれたことはすばらしい。彼の詩にはこのテーマが多いのだそうだ。

 

ぞうさん、あなたの鼻は長いんだね。そうだよ。かあさんも長いんだよ。そして僕は母さんが好きなんだ。

 

つまりこの言葉は、「僕は僕が好きなんだ!」と言っていることになるのだ、ということがようやく分かった。

 

この自己肯定の大事さは、現在異常に低いと言われている日本人の子どもの自己肯定感に、何か一石を投じるものなのではないかと思う。

 

このうたの意味を、子どもの頃から、もっと伝えてあげて、理解させてあげたらいいのではないだろうか。

 

今までこの詩人をどう評価したらいいのか、よくわからなかったのだけど、とても大事なことをとても簡単な言葉で言っている、この詩人は本当に凄いと思った。谷川俊太郎もまたやはり凄い。

 

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その8)村上春樹を読む人は多数派なのか少数派なのか

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

(その7)からの続きです。

 

描写においてもやはりすごいなと思うところはいくつかあって、若い女性の輝くばかりの魅力が、あっという間に失われていくそのあたりの描写とか、背中に何かスイッチのようなものがあるというような感覚とか、なんかそういうものはすごいと思うのだけど、それってみんなが面白いのかどうかよくわからない。単純に、『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハンとか、『海辺のカフカ』の四国の森の描写よりも、今回のフィンランドの平原の描写の方が描けていると思うのだが、そのあたりも。

 

まあとにかくそういう問題認識とか面白さのとらえ方という面においては私は少数者であるという自覚があるから、ハテ本当は一体どれくらいの人が村上春樹を面白いと思うのだろうかと思うのだが、しかし思った何十倍も売れているところを見ると、私の問題意識と似たものをも持った人は実はたくさんいるのではないか、私は思ったよりも少数派ではなく、実は結構多数派なのではないかという幻想を持ってしまったりもするのだった。

 

もちろんそれが幻想だという認識は村上春樹新作発表という熱風が通り過ぎればすぐ、また戻ってきたりはするのだが、それに勇気づけられることもまた、私にとってものを書くことの原動力にもなっている、ということに、いつも希望は持つのだった。

 

(終)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その7)未決の引き出しとの向き合いかた

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

 (その7)からの続きです。

 

話は、私自身のことになる。『多崎つくる』を読んで、その問題意識に刺激されて、私自身のことについて考え始めている。

 

私は今、これからも物を書いていく、物語を書いていくにあたって、その「未決の引き出し」をどうやって開けていくか、という問題と直面していて、この小説はそれを考える上でのヒントや示唆に満ちている、と思った。そういう意味でこの小説は私にとって「必要な小説」であり、これを「今読め」と示されたことはシンクロニシティ以外の何ものでもない。

 

しかし考えてみると、私個人に限らず今の日本は、「未決の引き出し」を開けるかどうかを迫られている状況なのかもしれない。その引き出しの中には鬼が出るか蛇が出るか、それとも「希望」というものが残っていたりするのか、それすらわからない。

 

この小説が理解され、読まれていくとしたら、それはそういう部分でなのかもしれないと思う。村上春樹の過去の作品と比較してみたり、様々な哲学や心理学を引き合いに出して描かれた論考やレビューをいくつか読んだが、私は結局、この小説を「自分の問題」としてとらえることしか結局は興味が持てなかったし、これからもきっとそうだろうと思う。

 

そう、私という人間の問題と言えば問題なところは、昔からどんな話を読んでも聞いても自分の問題としてとらえてしまうところ、自他の境界があいまいになってしまうところだった。しかし、今まで私は村上の作品を、自分の問題としてとらえる、つまり共感することは一度もできなかった。この小説は初めて、最初から最後まで「自分の問題」として読むことが出来た。自分にとっては村上春樹読書史上画期的な事件なのだ。

 

だから正直言って、この話が私以外の人にとって面白いのかどうか、本当はよくわからない。この話はあまりに「個人的に面白い」のだ。だから私にとって問題と感じていることを同じように問題と感じている人なら、面白いだろうと思う。

 

(その8)に続きます。

 

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その6)生の色彩を取り戻すことは、死すべき運命との引き換えでしか得られない

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

(その5)からの続きです。

 

しかし、人は誰しもできれば晴れ晴れと生きていきたいから、解決できる範囲では解決したいと思うし、しかしその範囲でなんとかしようとすることが、その範囲を超えて自分の存在を脅かしてしまうこともよくあることだ。

 

沙羅の求めにつくるは自分の過去を取り戻そうとし、そして確かにつくるは自分の生の色彩を取り戻していくのだが、しかしだからこそ沙羅の存在が今までになく大きくなり、つくる自身が存在できるか否か、生き続けて行けるのか否かの許認権を握るまでになってしまう。そしてその沙羅がつくると生きるのかどうか、つまりつくるがこれからも生きられるのかどうかが次の日に示されるという未決の夜で、物語は終わる。自分の生を取り戻すということは、自分の生が終わるということなのかもしれない。

 

多分、緑川の語る神話の本質は、そういうことなのだ。人は触れたくない、と思っていた「未決の引き出し」に誠実に向き合うことで、その人本来の色彩や輝きを取り戻す。それさえあれば他のものすべてを詰まらないと感じ、それだけで満足してしまうような感覚を得るだろう。しかしその感覚を渡されたものは、遠からず死ななければならない。人が人の生の輝きを得るということは、人が死すべき存在であるということと引き換えにしか得られないのだ。

 

ファウストが、「とまれ、世界は美しい」と言ったらメフィストフェレスに魂を奪われる、という話のように。そういえば緑川はその話を、悪魔と絡めて語っていた。

 

灰田にとっては作への思いを現すことがその、自らの色彩を取り戻すことであり、つくるがその思いに答えないということが生の終わりであって、ある意味それは「最初から分かっていた」ことなのだろう。灰田のくだりがラストで何も触れられていないのは単にそれが伏線として未回収なのではなく、それが神話次元の話であって、ある意味現実と関わりのない話であるからだろう。

 

(その7)に続きます。

 

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その6)生の色彩を取り戻すことは、死すべき運命との引き換えでしか得られない

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

(その5)からの続きです。

 

しかし、人は誰しもできれば晴れ晴れと生きていきたいから、解決できる範囲では解決したいと思うし、しかしその範囲でなんとかしようとすることが、その範囲を超えて自分の存在を脅かしてしまうこともよくあることだ。

 

沙羅の求めにつくるは自分の過去を取り戻そうとし、そして確かにつくるは自分の生の色彩を取り戻していくのだが、しかしだからこそ沙羅の存在が今までになく大きくなり、つくる自身が存在できるか否か、生き続けて行けるのか否かの許認権を握るまでになってしまう。そしてその沙羅がつくると生きるのかどうか、つまりつくるがこれからも生きられるのかどうかが次の日に示されるという未決の夜で、物語は終わる。自分の生を取り戻すということは、自分の生が終わるということなのかもしれない。

 

多分、緑川の語る神話の本質は、そういうことなのだ。人は触れたくない、と思っていた「未決の引き出し」に誠実に向き合うことで、その人本来の色彩や輝きを取り戻す。それさえあれば他のものすべてを詰まらないと感じ、それだけで満足してしまうような感覚を得るだろう。しかしその感覚を渡されたものは、遠からず死ななければならない。人が人の生の輝きを得るということは、人が死すべき存在であるということと引き換えにしか得られないのだ。

 

ファウストが、「とまれ、世界は美しい」と言ったらメフィストフェレスに魂を奪われる、という話のように。そういえば緑川はその話を、悪魔と絡めて語っていた。

 

灰田にとっては作への思いを現すことがその、自らの色彩を取り戻すことであり、つくるがその思いに答えないということが生の終わりであって、ある意味それは「最初から分かっていた」ことなのだろう。灰田のくだりがラストで何も触れられていないのは単にそれが伏線として未回収なのではなく、それが神話次元の話であって、ある意味現実と関わりのない話であるからだろう。

 

(その7)に続きます。