文化系ブログ

アート、小説、音楽、映画、文化に関すること全般を雑談的に。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。(その2)「提示されている問題を自分の問題としてとらえてしまう」度の高さ。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

(その1)からの続きです。

 

とにかく上手いと思うのは、一つ一つの作中人物が抱えている問題が明らかになるときの、「自分の問題として考えてしまう」度の高さ、「そういうことってあるんだよなあ」と思ってしまう感じが、今まで読んだどの小説よりも強い、ということだった。村上の小説、というか小説というもの全般を読んでいて不満に感じたことの多くは、「そういうことって…あるか?」と思うことがあまりに多くて、しらけてしまうということだったのだが、この小説は読んでいて「そういうことってあるんだよなあ」「わかるわかる」度がすごく高いのだ。それも、「今まで誰も言ってないし、読んだこともないけど、そうだよね」と思わせる度合い、説得力というものがとにかく高い。

 

いや、ありがちな事件、ありがちな問題、あるいは今まで村上が取り上げてきた引っ掛かりのようなものの羅列にすぎない、と思う人もいるのではないかと思うのだけど、その叙述が今までになく上手く、本当にそうだよなあと思う。それは個々の描写が、今までになく丁寧であるということにもあるのではないかと思う。ある意味、村上色が透明になっている部分もあり、「村上風リアリズム」というか、村上風ではあるけれどもリアリティがあり、寓話的なエピソードから現実に下りていくところ、そしてそれが神話的な次元に高まり、また現実に下降していく、その遷移がなんというか愛おしく感じられる、ところがある。

 

最初の楽園の、いわば寓話的な記述は、アッパーミドル感が強すぎてちょっとどうなのかと思ったのだけど、たぶんそれは彼がそういう世界を設定しないとここで取り上げた問題がうまく書けないと感じているということもあるだろうし、逆に言えばここで取り上げられている問題を中心に主人公が悩めるということは、そういう階級であることを必要とする、という現代という時代でもある、ということもある気がする。

 

戦前の文学が描き出した一高生の憂鬱みたいなテーマは、プロレタリア文学のような人物を主人公にしては描き出せないという認識が多分彼の中にはあって、それは多分正解なのだけど、そこにも反感を持つ人はもちろんいるだろう。東浩紀のような「孤独なおたくの男の子の内面」に降りて行こうというような「人民の味方」感はない。そこにはおそらく、六本指という奇形の扱い方、女性という存在についてのある意味ステロタイプと言えなくもない認識とかから見ても、「人民の敵」とみなされる可能性は常にある「プチブルの文学」であるのかもしれない。

 

しかし、山岸涼子の『テレプシコーラ』がアッパーミドルの家庭でなければ成り立たない話であるのと同様には、『多崎つくる』もそうでないと成り立たない話なんだろうという気はしなくはない。

 

登場人物の中で自分の能力の不足に悩んでいる存在は、楽園の崩壊への不安に自分の精神を崩壊させ、作品中で供犠の役割(いわば『ノルウェイの森』の直子的存在)を演じているシロ=ユズしかいない。あとの人々は、自分ではその形は歪んでいると思い、そういう意味で中途半端な感は抱きながらも、自己実現している。

 

(その3)に続きます。