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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その4)「ないこと」を得ることの難しさ

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

(その3)からの続きです。

 

いや、シロ以外にもう一人自己実現したとは言えないのが灰田という存在だろう。彼はそうは断定されていないけれども明らかに同性愛者で、つくるにそれを求めて、ただ一度だけその思いを、おそらくは彼としては決然として、しかしつくるにとっては曖昧に現した。そしてつくるはノンケの男がゲイに感じる恐怖心、「自分がゲイの傾向がある」ことを強く否定したい感情に突き動かされ、「平静を保つ」。このあたりの感覚はよくわかるし、多くの人は純粋なゲイではなく、多少なりともバイセクシュアルな傾向を持っていてもそれを認めたがらないが、しかしそれを抑圧しているだけだというところがあるのは、『ぼくらのへんたい』が高い評価を得ていて、私自身も強く魅かれるものがある、ということからもよくわかる。

 

そのあたりのところが、単なる「少数者に転落することの怖さ」からきているのか、自分自身が自分と信じていたものが分からなくなることの怖さからきているのかはまた微妙なところがあるだろう。

 

人はないものを得ることは難しくても、自分の中の自分にとって――それが良識的なものであれ、そうでないものであれ――好ましくない部分は「克服すべきもの」「否定すべきもの」であるととらえやすい。あるいは端的に切り捨て可能なものとして「ないこと」にしてしまう傾向はある。

 

しかし本当は「ないこと」を得ることはそんなに簡単なことではないのだろう。この灰田とのプラトニックなホモセクシュアルな関係が、物語の一つのバックカラー、背景色をなしているように思える。人は本当はかなりの部分、どちらにもなりうるのだろう。しかし最初からその思いを否定されてしまった側の悲しみ、真性のホモセクシュアルの側にとっての悲しみがそこに描かれ、自分が傷つけられる側でしかないと思っていたつくるが、無意識の虐待者にすらなっているという反転もまたそこには表れていて、まあこのあたりが実に「そういうことってあるんだよなあ」と思わされてしまう。

 

(その5)に続きます。