『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(その5)「ちゃぶ台をひっくり返す」ことはいいことなのかどうか
(その4)からの続きです。
灰田の語った緑川の話が、このストーリーの一番神話的な部分だろう。神話的というのは、『ねじまき鳥』で言えばノモンハン、『1Q84』で言えば猫の町、『カフカ』で言えばナカタさんということになるのだが、このことについては後で考えてみる。
過去をほじくり返して、自分の本当のありかを知る、という試みはいいのかどうかは難しい。人は歪んでしまえば歪んだまま生きていける。歪みは直すのは多分正しいことなのだが、人の生として一番その人らしく生きられる、主体にとってはそうであることはあっても、そのために失わざるを得ないものは多い。体の歪みを直すことによってさえ失われるものがあるということは整体に通っていて感じることがある。
私の中にも、過去の大きな負債というか、未解決のままにしてきたもの、作中の表現で言えば「未決の引き出し」に突っ込んだままにしていることが膨大にあって、それは「引き出しに入れる」ということによってバランスを取りながら生きてきた、「とにかく生きる」と決めて生きてきて、「生きてこられたことの証」でもあるのだが、引き出しに押し込められたものが「何とか解決してくれ」と亡霊のように自分にささやき続けている、ということもまたある。
私はそのたびに、それをやることで得るものと失うものを考え、そのバランスを取りながら、その声の求めに応じて動いてみたり、再び引き出しに仕舞ったりしている。そしてそれがやりきれなくて、「ちゃぶ台をひっくり返してしまう」ことを私は危惧している。
「ちゃぶ台をひっくり返す」こと自体を危惧しているわけではない。私は正直言って、何度もちゃぶ台をひっくり返してきた。その多くは過適応を是正するため、息苦しくなってきた自分の環境を一度壊すため、そうしないと生きていくこと自体が出来なくなってしまうと思った時だ。
おそらくは、過去の解決していない問題というのは、今すぐ解決しないと生きていくことはできないというほどの危機感で持って自分には迫ってきていないということなのだろう。しかし、それを解決しないと前に進めないという危機感を持つことはよくあるわけで、しかしそれでちゃぶ台をひっくり返したことは一度もなかった。私にとっては、とにかく生きていくことがまず大事で、瘡蓋を剥がすことで死ぬ危険があるのなら、やはりそのままにしてきたということなのだ。たとえそれがどんなに苦しいことであっても。
(その6)に続きます。